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1 弥生台周辺の歴史 「弥生台」太古のロマン薫る地 ここ弥生台は、江戸時代までは相模国鎌倉郡阿久和村の一部でしたが、明治22年(1889)4月、阿久和村は中川村阿久和となり、昭和14年(1939)4月横浜市に編入されて、阿久和村のうち上部は阿久和町(現瀬谷区)、下阿久和は新橋町となりました。 弥生台地区は、丸山、亀谷、狐穴、鍵坂、榎坂、榎橋の六つの字にまたがる丘陵地で、昭和46年(1971)3月、相模鉄道(株)により二俣川~いずみ野間(5.9km)のいずみ野線起工式が行われ、昭和51年(1976)4月に開通しました。同年、新橋区画整理事業(35.9ha)が着工されて、昭和55年(1980)には新橋町や岡津町などの一部が弥生台となりました。そして相鉄がこのA地区(10棟)を建設、分譲し昭和57年(1982)9月から入居が始まりました。 弥生台のネーミングは、いずみ野線が施工のとき、この近くで大昔の土器が出土されたのにちなんだと言われていますが、弥生土器はあまり出ておらず、むしろ、春の弥生とスプリングといわれるような活気に溢れる町をイメージして命名されたそうです。ほんとうに、弥生台駅ホームの桜並木(50本)は見事です。 ただ、新橋町宮古(五霊社のうちの台地)から撚糸文土器と、同じ町内の神明谷からは勝坂式土器(B.C.2500年)と呼ばれる縄文土器が出ており、縄文文化の太古のロマンをしのばせます。 鎌倉武士無念の最期・・・墓は万騎が原に 私たちにおなじみの横浜泉郵便局や立場地区センターの前の道路は、今もかまくらみちと言われています。 「吾妻鏡」によりますと、文治5年(1189)7月17日、将軍源頼朝が奥州征伐のため鎌倉、中の道を通ったと記されており、そのとき先陣を務めたのが畠山重忠でした。 畠山重忠は源頼朝の信任がすこぶる厚く、智、仁、勇に優れ、人望の厚い名将でしたが、頼朝の死後、権力闘争の渦中に巻き込まれ北条時政のだまし討ちにあって、万騎が原であえない最期を遂げました。重忠のお墓は、旭区万騎が原に現存しています。 万騎が原は、平安時代“牧ヶ原”と呼ばれ、伊勢神宮のご料地で馬が放牧されていました。 また近くには、子供さんでもご存知の「大山道」があります。 その昔、北条政子(尼将軍)も大山不動に参詣したと伝えられた丹沢連峰の名山で、大山寺は奈良時代に建立されたと言われ、雨乞いの神としての農民の信仰をあつめました。 江戸(東京)から70kmという手ごろな距離だったので、大山詣りは幕末まで賑わったと伝えられています。 大山道で、新橋から阿久和に抜けるのが八王子道で、今でいう「シルクロード」でもありました。 昭和10年代の初めまで、中川村の一帯には、桑畑があり、養蚕農家がたくさんあって、製糸場もありました。ここには大勢の女工さんが働いていましたが、そのほとんどは遠く長野、山梨からの出稼ぎで、「あゝ野麦峠」のヒロインたちでした。 ![]() YOKOHAMAの異人さん、恋からハムへ この頃はあまり見かけなくなりましたが、入居当時の昭和57~58年ごろは、団地の周りに養豚場がありました。この豚クンは「高座豚」といって昭和30年(1955)頃までは、どこの農家でも飼っていました。 有名な「鎌倉ハム」の原料!だったのです。 明治14年(1881)ハムの製造が鎌倉郡下柏尾村で始められたので鎌倉ハムと名付けられました。下柏尾村といいますと今の不動坂の辺りになります。 ここにロマンスがあります。明治10年のこと、横浜の英人カーティスさんが戸塚の茶店で、“おかねさん”という美人の女中を見初め、熱い恋を実らせてカップルは柏尾(戸塚)にスイートホームを建て、そこで後日、牛豚200頭を飼育、加工場をつくってハムを製造したのが、「鎌倉ハム」の起源といわれます。 五十三次と明治の清新な風・・・戸塚宿 ついでながら、東海道五十三次の一つであった戸塚宿は、昔、富塚、十塚とも呼ばれ、広重の絵にもある戸塚の風景は天保5年(1834)頃のものと思われます。 「仮名手本忠臣蔵」《竹田出雲作、寛永元年(1748)8月》の「お軽、勘平:戸塚山中道行の場」とか、弥次さん、喜多さんで有名な十返舎一九(1765~1831年)の傑作「東海道中膝栗毛(ひざくりげ)」にも戸塚宿のことは出てきます。 下がって、明治以降では、俳句の高浜虚子が明治38年(1905)戸塚の友人と、藤沢までの4㎞の夜道を歩いたと『ホトトギス』(同年9月刊)に出ていますが、このころも今と同じで、汽(電)車賃は高かったのデス! 桜祭りで有名な柏尾川堤では、昭和5年(1930)4月に、与謝野晶子等が詠んだ名吟が数多くあります。 ![]() 1975年(昭和50年)9月15日 「雲じいじ」中丸定昭氏 撮影 建設中の相鉄いずみ野線と弥生台駅を北西から写した写真。 線路の敷設はこれからのようで、駅の近くまで山林が残されている。 徳川家 直参旗本、安藤氏が阿久和領主 朝、夕、時を告げる鐘の音が響いてきますが、これは新橋町の阿久和山観音寺の鐘です。 観音寺は、元和3年(1613)3月徳川家の直参旗本、 安藤治右衛門正弥(知行400石)の創建といわれ、ご本尊は聖観音菩薩です。家光公の時代、慶安2年(1649)には、寺領12万石のご朱印を受けた曹洞宗のお寺です。 安藤家は天正19年(1591)から200年以上続いた三河以来の譜代で、阿久和が領地でしたが、代々の領主の中には、あまりにも重い税を課して農民に一揆を起こされたり、また泉区の民話として新刀の試し切りに女巡礼を切り捨てたというので、今でも巡礼坂(新橋町)と、その名が残っています。 また、徳川家康の側室だった「於万の方」は岡津の出で、40歳で辞去して清源院尼となり、その清源院の跡地に建ったのが、鶴亀山一心院西林寺(岡津町1432)です。 明治6年(1873)、岡津小学校が設けられたときに西林寺本堂を使っています。 初代の塾頭原田由右衛門先生の石碑が境内にあり、また西林寺の境内には、樹齢500年という名木クロマツと、これも横浜市名木古木指定の枝垂桜があります。 【注】現在、岡津町・領家・西が岡・桂台・弥生台を一括して「中川地区」と称することもあります。 【参考文献】 大橋俊雄著「戸塚の歴史」上巻戸塚区観光協会 〃 「戸塚区郷土誌」戸塚区観光協会 津田芳夫著「横浜泉地理・歴史探訪」湘南印刷(株) 小島貞雄著「泉区郷土史」まつ出版 相 鉄「沿線半世紀」相模鉄道(株) |
